マイケル・ジョーダン 年表 (THE HISTORY OF "MJ") |
幼少時代 |
ジェームズ・ジョーダンとデローレス夫妻の三男として生まれる。
幼少時代の多くをノースカロライナ州ウィルミントンで過ごした。バスケットを始めたのは12歳で、当初は兄の手ほどきを受けて練習していた。15歳の時、中学校の試合の最中に初めてのダンクを成功させる。
このときの身長は178cmだった。
|
高校時代 |
地元のE・A・レイニー高校に入学し、バスケットと野球に明け暮れる。
しかし、高校2年生になっても180cmとあまり背が伸びず、さらに技術不足を理由にある大会のメンバーから外される。
この挫折を糧にし、3年時には野球を諦めバスケットに専念。
そして、ジョーダンはファイブスターキャンプで大学関係者の注目の的となる。 |
大学時代 |
80年代後半のジョーダン率いるブルズはアイザイア・トーマス率いるデトロイト・ピストンズに辛酸を舐めさせられていた。
しかし、90年代に入り、フィル・ジャクソンがHCに昇格し、スコッティ・ピッペンに代表される優秀なチームメイトが集まるとブルズは宿敵ピストンズを破り、ファイナル進出。マジック・ジョンソン率いるロサンゼルス・レイカーズと対戦。リーグ初制覇を果たした。
翌シーズンは67勝をあげ、ファイナルでポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。クライド・ドレクスラーらの猛攻を退けチャンピオンリングを獲得した。
92-93シーズンは57勝と少し数字を落とすが、やはりNBAファイナルまで進出し、その年シーズンMVPに輝いていたチャールズ・バークレー率いるフェニックス・サンズを第6戦で下し、ジョーダンはブルズをスリーピートに導いた。 |
シカゴ・ブルズ入団 |
85年にドラフト全体3位でシカゴ・ブルズに入団したジョーダンは1年目から平均28.2得点という高い能力を見せた。2年目は怪我で出場が少なかったものの、3年目には平均37.1得点を叩き出し、スコアリング能力が完全に開花した。特にダブルクラッチやダンクに代表される空中でのプレイはジョーダンの代名詞となった。 |
初期スリーピート |
80年代後半のジョーダン率いるブルズはアイザイア・トーマス率いるデトロイト・ピストンズに辛酸を舐めさせられていた。しかし、90年代に入り、フィル・ジャクソンがHCに昇格し、スコッティ・ピッペンに代表される優秀なチームメイトが集まるとブルズは宿敵ピストンズを破り、ファイナル進出。マジック・ジョンソン率いるロサンゼルス・レイカーズと対戦。リーグ初制覇を果たした。
翌シーズンは67勝をあげ、ファイナルでポートランド・トレイルブレイザーズと対戦。クライド・ドレクスラーらの猛攻を退けチャンピオンリングを獲得した。
92-93シーズンは57勝と少し数字を落とすが、やはりNBAファイナルまで進出し、その年シーズンMVPに輝いていたチャールズ・バークレー率いるフェニックス・サンズを第6戦で下し、ジョーダンはブルズをスリーピートに導いた。
|
引退(1) |
ブルズでスリーピートを成したのち、92年に開催されたバルセロナオリンピックでドリームチームとして金メダルを獲得し、選手として絶頂期にあったジョーダンだったが、93年に突然の引退を発表する。
父親のジェームズ・ジョーダンが強盗に襲われ、命を落としてしまったことが引き金となり、ジョーダンは選手として幕を閉じようとした。そして亡き父の夢であったメジャーリーグへの挑戦を開始する。 |
復帰(1) |
MLBで2年間プレイ(通算 .202 3HR 30盗塁)した後、ジョーダンは"I'm back"という声明文と共にブルズに復帰する。
年齢は32歳というベテランの域に入っていたが、背番号[45]をつけバスケットの神様は再びNBAに帰ってきた。この頃のジョーダンのプレイスタイルは引退前の空中を跳躍するスタイルではなく、キャリア後期の代名詞とも言えるフェイダウェイショットを軸としたジャンプショット中心のスタイルに変わっている。
復帰一年目のジョーダンはブルズを率いてプレイオフに進出するが、シャキール・オニール、アンファニー・ハーダウェイという大型新人を擁したオーランド・マジックに破れてしまう。
"I'll be back"という一言を残しジョーダンはコートを去った。 |
後期スリーピート |
ジョーダン復帰一年目の結果を踏まえて、ブルズはデニス・ロッドマン、トニー・クーコッチを補強し、王座奪還を目指した。そしてその補強は目覚ましい効果を生み95-96シーズン、NBA史上初の72勝をあげプレイオフに進出。ファイナルに進み、シアトル・スーパーソニックスを退けリーグを制覇した。
96-97シーズンは前年より2勝少ない69勝でプレイオフに進出。順調にファイナルまで進み、ジョン・ストックトン、カール・マローンを擁するユタ・ジャズと対戦し、これを下した。緒戦のブザー・ビーターや病気をおしてのプレイが評価されジョーダンはMVPを獲得した。
97-98シーズン、ブルズに暗雲が立ち込める。HCフィル・ジャクソンが早い時期から退任を仄めかしており、かつ盟友スコッティ・ピッペンはフロント陣営との関係を悪化させていた。ジョーダン自身も30代中盤を過ぎパフォーマンスも不安視されるようになった。マスコミはそんなブルズのシーズンを「ラストダンス」と評した。この年はシーズンを62勝で折り返し、プレイオフに進出。ファイナルに駒を進め、前年と同様ユタ・ジャズと対戦。拮抗した対戦だったが、第6戦でジョーダンは残り5.2秒で決勝シュートを決めブルズを2度目のスリーピートに導いた。 |
引退(2) |
2度目のスリーピート達成後HCフィル・ジャクソンは退任し、スコッティ・ピッペンはヒューストン・ロケッツへトレードされた。そしてジョーダンは2度目の引退を決意する。
|
チームオーナーへ |
引退後のジョーダンは2000年ワシントン・ウィザーズに出資し、オーナー陣へ参画。バスケットボール運営部門の社長となり、低迷するチームの再建が課せられた。 |
復帰(2) |
ジョーダンのオーナー就任後もチームの低迷は続いた。そして最高の打開策としてジョーダンは自らコートに戻ることを決意する。
|
ウィザーズのMJ |
2001年ジョーダンはコートに再び戻ってきた。
チームの事情によりポジションをSFに変更し、若い選手たちと共にチームをプレイオフへ導こうと奮闘する。しかし、ジョーダンの年齢は40歳に近づいており、以前のようなパフォーマンスは見せられなくなっていた。
|
完全引退 |
復帰後2シーズンの間、ジョーダンは献身的にチームに貢献したが、やはりプレイオフには出場できなかった。しかしながら、ジョーダンは平均得点20点をマークし、40歳で40得点という史上初の記録も樹立した。
そして、シーズン終了後マイケル・ジョーダンはNBAのコートから完全に引退した。
|